看護師昔話②

指導者朝子さん
私が新人の時、1年間指導してくれたのは33歳の朝子さんだった。化粧っ気がなく、眉も1本の線で描き眼鏡をかけていた。
やわらかい物腰がなかったら新人にとっては馴染みにくかったと思う。

「MIKOちゃん、よろしくね。MIKOちゃん担当の朝子です。」
ファーストインプレッションは“お母さんみたい”、40代に見えた。
そもそも21歳にとって33歳も50歳も同じように見える。

「MIKOちゃん、干支は何?昭和何年生まれ?」
今ではこの質問は死語になりつつある。

一日が長い新人時代
新人担当の看護師は、最初の3カ月は新人とほぼ同じ勤務形態にする決まりだった。
夜勤手当が入らないため、新人担当になるのを渋る看護師は多い。
朝子さんは現役の助産師さんの母親と二人暮らしだった。
早くに父親を病気で亡くし、女手ひとつで3人の娘を育てあげたと言う。
「お姉ちゃんも看護師、妹は助産師、看護職一家よ。姉妹皆、お母さんみたいに不規則な仕事は嫌だって思っていたのにね。」
二人の姉妹は結婚し遠方に住んでいること、母親は産婦人科の個人病院で師長として働いていること、父親は胃がんで朝子さんが小学生の頃亡くなったことを語ってくれた。

私の新人の頃は業務が終わってレポートを書き、指導者にレポートを見てもらいその日のうちに疑問点を解消させるのが決まりだった。

「朝子さんレポートお願いします。」
そう言ってレポートファイルを見せ、目を通してもらう。
「ふんふん、浣腸の目的ってこれだけ?患者さんの立場で考えてる?」
指導された内容は持ち帰って調べてくるか、残って調べるかどちらかだった。

私以外に新人看護師が1人いたが、彼女は泣きながら指導を受けることが多かった。
「私がいじめてるみたいじゃない、泣くのやめてくれる?」
そう言われて泣き止むはずもなく、しゃくりあげて嘔吐したことも数回あった。
(幼児かよ)

朝子さんに救われたのは、決して威圧的ではない優しい口調だったのもあるが、
レポートチェックの後に、
「私も勉強になるわ、新人に戻った気分よ。」
と付け加えてくれたことだった。
「私の若い頃はね・・」の口癖も、33歳と年齢差もさほどないことが分かってからは、日本史を聞き流す感覚になった。

数年経って私も指導者になったが、アウトプットの大切さと指導するため学習し直すことの意義がわかった。当時、新人看護師に感謝の気持ちを抱けたのは朝子さんのおかげだと思っている。

あれから20年以上が経ち、朝子さんは関連の看護学校で教職を続けている。
教諭資格は持っていたが、臨床を経験したほうがいいと思い資格を活かせていなかった。看護学校教諭を考えたのは私の指導者になってからだと朝子さんは言う。

「こうして看護学校の教諭に就けているのはMIKOちゃんのおかげよ。いくらお礼を言っても言い足りないわ。」
会うたびに朝子さんは言うが、私が今師長で頑張っていられるのも朝子さんのおかげだと思っている。私の看護師人生に影響を与えた数人の中に間違いなく朝子さんが入っている。
人の起点に関われるって素晴らしいと思う。自分を育てるように新人を育てよう。  MIKO

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